【日常スケッチ】どこまでも続く田園風景。パレスチナの人たちが、今も「イスラエルって呼びたくない」理由。
「パレスチナ問題」ってぶっちゃけなんなのか?
「出来るだけ日常生活の具体的エピソードを交えながら」書いていくことを試みたいと思います。
パレスチナの人たちは、日々の生活で、何に喜び、何に哀しみ怒っているのか。
私が見たことはほんの断片に過ぎませんが、お伝えさせて下さい。
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2002年6月、イスラエルへ入国した初日。
パレスチナ自治区・ヨルダン川西岸地区の都市の間をバスで移動中、
車窓いっぱいに広がる景色に、目を奪われました。
見渡す限り広がる、緑に満ち溢れた田園風景。
観光写真のように見事に区画されたなだらかな丘陵を眺めながら、何の気なしに、
「イスラエルって、すごく綺麗なところですね」と、同乗していたツアーの参加者に話しかけると、
前の席に座っていたパレスチナ人コーディネーターが、苦い表情で振り返りました。
「ここは、イスラエルじゃありません」。
それまで物柔らかだった彼が発した、その断固たる口調に、ハッとしました。
そこは、占領地。
もともとは、パレスチナ人が耕していた土地。
目にすることができるのに、いまは自分たちが立ち入ることも耕すことができない土地だったのです。
スプリンクラーが整備され、緑滴るような豊かな場所は、すべて、イスラエルが支配している占領地でした。
どんな思いで、パレスチナの人たちはこの風景を見るのだろう。
整然と続く田園風景の中を延々と走っている間、
どこまでも続いていくその果てなさに、胸が締めつけられました。
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パレスチナでは、いまでも「イスラエル」と呼びたくないという人が少なからずいるそうです。
帰国後、敬愛するジャーナリスト広河隆一さんの文章を読んで知りました。
”難民キャンプで人々が、イスラエルという言葉の代わりに「1948」という数字を固有名詞のようにして話していました。
「1948に親戚がいる」というふうに使うのです。
この年にイスラエルが建国されたのですが、イスラエルという国の存在を認めたら、これまでの難民生活54 年の苦難が何になるのか、という思いなのでしょう”
(2002年6月6日付 広河隆一さんWEBコラム「HIRORESS」より)
http://www.hiropress.net/column/020606.html
イスラエル建国によって70万人とも100万人とも言われるパレスチナ人が難民となり、
占領によって実に418ものパレスチナの村が地図上から消されました。
私が目にしたのは、そのうちのひとつだったのか。
平らに整地された光景からは、それ以前の姿を伺い知ることは全くできませんでした。
「ここはイスラエルじゃありません」と告げたパレスチナ人にとって、
自分たちの国の名前を奪われ、
既成事実のように普通に「イスラエル」と呼ばれることは耐えられなかったのでしょう。
「なんで自分たちの住んでいたところの名前が勝手に変えられてるの?
なんで自分たちの故郷に帰れないの?
なんで世界はそれを認めるの?」、と。
【当ブログ内関連記事】
2014年11月22日UP記事 パレスチナ人にとって絶対に忘れられない数字、「48」。↓
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2015年7月26日UP記事 「パレスチナ問題」って、ぶっちゃけ何なの? ↓
http://syuklm.exblog.jp/24726992/
もしよろしければ、日常生活については、カテゴリー「パレスチナ自治区サイド」もご覧いただけると幸いです↓
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