オトナの社会科・中東からの声を手掛かりに。

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【閑話休題】イスラエル入国の件。中学英語でも、なんとかなりました。





ちなみに。

自身は、自慢ではありませんが、

アラビア語もヘブライ語も全く出来ません。


英語もせいぜい中学レベルの、

それはもうヒドい代物です(笑)。

そして今も全くレベルアップしていません)。




市民交流ツアーに参加しての訪問だったので、

現地で団体行動中は、通訳がついてくれました。


しかし単独行動のは、大汗をかきながら、

ブロークン英語と身振り手振り総動員でした。






イスラエル入国の際、

ベングリオン空港でのこと。


現地でツアーに合流するため、

一人での入国でした。




「安全がすべてに優先する」というイスラエルへの入国審査

大層大変なのは聞いてはいたのですが、

案の定、セキュリティーチェックの係員に

個別に呼び出されて、別室で足止め。



隈なくボディチェックされ、

リュックの中身全て机の上に取り出された上で、

男女の係員が何人も入れ代わり立ち代わりで、


「何の目的で来たのか?」

「どこに行くのか?」とか、

厳しい口調で詰問されました


が、もちろん正確な内容なんて、

ほとんど理解できません。




数日前に、日本人NGOが空港で

入国拒否されていたので、

「ここまで来て追い返されてたまると、

とにかく粘りました。




エルサレムとオリーブ山を見に行きたいんです。

あと、ベツレヘム生誕教会。

イスラエル軍が包囲してたけど、

包囲が解かれたって聞いて、

今、見たいと思って!」とか

いろいろ考えてきた理由を言ってみましたが、

相手は、途中からしきりに首を振ったりしています





いよいよ、雲行きが怪しい。





ついには上席らしい係員が現れ

これを見ろ。お前はこの一行だろう」と、

なんと合流予定のツアーの参加者リストを示されました。




「こりゃもう、しらばっくれても無駄だな」と

をくくりました


こうなりゃ後は、押しの一手しかない。





「だったらなんなの?(So What?)」と開き直って、

「なんで私は入国できないのか?!

(Whycan't I entry?)」と、

ワンフレーズを延々と、

ひたすら繰り返し続けました。


(これが英語表現的に正しいのか、

いまでも不明です。

どなたか教えて下さいませ)




4時間も経った頃でしょうか。



ついに係員もウンザリしたのか、

面倒臭そうに机の上の荷物を

こちらへ押しやってよこしました。






通過!




「なんとかの一念、岩をも動かす」と

いうヤツですね。

中学英語でも、気合でどうにかなるものです。






こうして、先に入国を果たしていツアー本体

エルサレムで合流し

そのままパレスチナ自治区

トゥルカレムへ向かいました。






着いた~!エルサレム~!!

(パレスチナ自治区の土産物店で買った

カレンダーより。エルサレム旧市街)


※市民交流ツアー全行程:

パレスチナ自治区(ラマラ→エルサレム→トゥルカレムジェニン難民キャンプ)

イスラエル(死海、エルサレム、テルアビブ)

パレスチナ自治区(ガザベツレヘム→ドゥヘイシャ難民キャンプ→ヘブロン)。




私はトゥルカレムへ向かうところから合流し、

主にエルサレム旧市街(パレスチナ自治区側)を拠点に、

各地へ移動しました。

なお、ラマラ・ガザなど一部の行程には私は参加していません。





これまでパレスチナ自治区中心に書いて来ましたが、

これからいよいよ、イスラエルサイドへ向かいたいと思います。






※タイトル改題し、文章一部加筆しました(2015.7.8)


byしゅくらむ


by shuklm | 2014-10-31 19:36 | 閑話休題 | Comments(0)

【閑話休題】駆け足、「死海リゾート」。

ハードな話続きで、皆さんもお疲れではないでしょうか。
実際、私も現地でヘタり、途中リフレッシュ時間を持ちました。

2002年6月8日。
ジェニン難民キャンプから帰った翌日。
非日常体験のストレスで、体調を崩す参加者もいたので、
ツアーの合間に、半日の観光タイムが設けられました。

以前の自分だったら、「紛争地まで来て観光なんて、不謹慎だ!」と
断ったかもしれないのですが、この時は行くことにしました。
「過酷な日常を生きるためにこそ、リセットが必要」と実感させられていたので↓
10月18日「砲声から逃れた後は、全力で卓球!」
http://syuklm.exblog.jp/23559504




というわけで。




やって来ました、死海。



言わずと知れた、世界的に有名なリゾート地。
海岸線(?)は、大量の水着の観光客で一杯でした。

海の10倍という塩分濃度30%。
どんな人でもプカプカ浮くといわれますが、確かに、仰向けに浮かんで本読んでる人とかいます。


私自身はカナヅチで、泳ぎには全然自信がなかったのですが、
「ミネラルたっぷりの死海浴は肌に良い」というので、恐る恐るトライ。


水に入って仰向けになると、
確かに、浮きました。
押し上げられてるような浮力。

しかし、当時アトピー症状が酷かったため、
「(塩水が)キズにしみる~。
 ていうか、い、痛いィ~~!!!!」。

飛び上がりそうな激痛にひたすら耐えるしかない、
ほぼ「修行」のような状態に。

数分でギブアップして、岸へあがろうとしたんですが。

ところが、今度は足がつかない!!

後から知ったのですが、「死海では、決してうつ伏せになってはならない」というのがオキテなんだそうです。
あまりに浮力が強すぎて足が浮いてしまって、
立ち上がれない人が続出するんだとか。

そんなことも知らず、膝ぐらいの水深で溺れ死ぬかと思って、
本気で焦りました。

しかも、死海の水、激辛っ! 
てゆうか、喉が焼ける!!!

喉も皮膚も焼ける!!!ってなカンジで、
ほうほうのていで引き揚げました。



大惨事…。



遠くに霞む、死海の向こう岸は、隣国ヨルダン。
地図上では、イスラエルとヨルダンの国境線は、
死海のど真ん中を縦にまっすぐ通ってます。

肉眼では確認できなかったのですが、
ヨルダン側では、国境警備隊が常にギッチリ警備しているらしいです。


いろんな意味で、全然リゾート気分には浸れず…。
いろんな意味で、「死ぬかと思った海」でした…。




byしゅくらむ

by shuklm | 2014-10-29 07:56 | 閑話休題 | Comments(2)

ジェニン・潰れた車椅子の持ち主のゆくえ

私がジェニン難民キャンプで見た、壊れた車椅子。

1010日「ジェニン2・ひしゃげた車椅子、無言のメッセージ」↓

http://syuklm.exblog.jp/23532293/

その持ち主のゆくえが、後からわかりました。

車椅子の持ち主の父親への聞き取りと、「ヒューマンライツ・ウォッチ」の報告が、土井敏邦さん著書「パレスチナ・ジェニンの人々は語る」(岩波ブックレット2002年12月発行)にありました。


車椅子の持ち主は、ジャマール・ファイードさん、37歳。

生まれつき介助なしには一人で食事をすることも動くこともできない重度の身体障碍者で、イスラエル軍の攻撃時、破壊された家の下敷きになった。家族が助け出すことをイスラエル軍に許可されず、そのままブルドーザーで生き埋めにされた。家族が何度探しても、瓦礫で肉片までズタズタに切り裂かれて、どうしても遺体を見つけることが出来なかった…と。



当時、「ジェニンで『虐殺』はあったか否か」という議論があり、犠牲者の数について様々な説がありました。


確認されている事実を書きます。


最初、「700800人の大虐殺があった」と報道されました。

イスラエル軍は当初ジャーナリストの取材を許可しませんでした。

国連が調査団を派遣しようとしましたが、イスラエルは拒否しました。


NGOが現地に入って、遺体を確認できた人についてカウントしたところ、当初言われていたほどの規模の死者ではなかったことが報告されました。

国連はそれをもとに、「大虐殺ではなかった」と発表しました。

それがメディアでは、「虐殺はなかった」と報道されました。



NGOも国連も、「虐殺自体がなかったとは言っていません


私がジェニン難民キャンプの住民から直接聞いた話では、20026月現在、パレスチナ・イスラエル双方とも確認している犠牲者数は、56人でした。

犠牲者の数は、遺体が確認された方だけです。いまだに遺体が見つからない方は、その中に入っていません。

車椅子の持ち主ジャマールさんも、パレスチナ・イスラエル双方が確認している死者数にも、国連報告書の死者数にも、カウントされていません。


彼の死は、客観的には証明できません。

だからといって、それがなかったことになってしまうのは、私は耐えられません。


広河隆一さんも指摘してらっしゃいましたが、「人数の問題ではない」のです。

日本語の辞書で「虐殺」とは、「むごたらしく殺されること」とあります。
彼は、「むごたらしく殺された」ことにはならないのか?


疑わしい点があった完全に証明出来ないという理由で、すべての事実がなかったことになるのでしょうか。

人の死が抹殺されていること、それ自体が問題なんです。


「『大虐殺はなかった」→「だから虐殺自体もなかった」という論法は、どこかで聞いたような話です

じゃあ、数字に間違いがあったとしたら、「ホロコースト(大量虐殺)はなかった」「南京大虐殺はなかった」ことになるのか?

ホロコーストが、600万人でなく、6万人だったらゆるされるのか?

南京大虐殺が30万人でなく、3千人だったらOKなのか?


そういうことではない、と思います。

犠牲者数の問題はないのです。


数人だったら、裁判もなく殺されるのは、OKなのか?

それがもし、たった1人だったとしても、ヨーロッパやアメリカや日本でいま目の前で同じことが起こったら、それはアリなのか? ということです。


ジェニンで起こったことも、ホロコーストも、私は、等しくゆるせないことだと思います。


ジェニンのことを書くのは、「ユダヤ人バッシング」が目的ではありません。

それをイスラエルの人にもどこかで伝えたいと思うのです。



byしゅくらむ

by shuklm | 2014-10-27 07:55 | パレスチナ自治区サイド | Comments(0)

ジェニンにて10・平和な朝。羊にお尻を攻撃される。



20026月8日、


パレスチナ自治区 ヨルダン川西岸地区、 

ジェニン難民キャンプから数キロのザバビダ村。




戦車に包囲された翌朝。




カラダ中が不自然に痛む状態で

目覚めました。


多分、普段なら他人様に

見せられないような形状

(ひざまずいて、頭から床に突っ伏した状態)で、

寝落ちしていたのだと思います。




寝ぼけまなこで、階下へ降りました。




砲撃の標的になるのを避けるために

電気を消し、建物の内側へ避難した

メンバーも、顔を揃えています。




「ああ、生きてた…」。




言葉にしなくても、

ホッとした表情で朝を迎えていました。





一方で、もともと内側の部屋で寝ていて、

「え、そんなことあったの??」と、

何も知らずに熟睡していたメンバーも

いました。




宿舎のロビーにあるPC

ネットニュースを調べたところ、

ジェニン難民キャンプ周囲の

数キロにわたって、

戦車32輌に包囲されていたそうです。


宿舎の前の道を、戦車10輌が通過した

のをカウントしていた人もいました。






それでも、誰にも等しく、

朝はやって来るわけで。




朝食を買いに、

村の市場まで出かけました。




ヒッチハイクして乗せてもらった

トラクターの荷台は、羊が満載。


メェメェ鳴きながら、なぜか

集中的にお尻を突つかれて、

くすぐったくて大変でした。


羊からの攻撃を避けようと

しゃがもうとすると、

羊の毛で鼻がムズムズするし、

身を乗り出そうとすると、

トラクターから転げ落ちそうになるし。



結局、

「あっ、ヤメテヤメテ。そこはダメ」と

悲鳴を上げ続けるしかなく、

トラクターの運ちゃんは、

街に着くまで笑い通しでした。




この道を、ほんの数時間前に

戦車が通っていたなんて、

とても信じられない。


のどかで、うららかな農村の風景が、

どこまでも続いていました。



これが、私が見たパレスチナの日常でした。






午前10時。

ツアーメンバーは、タクシーで

宿舎を出発しました。




極限状態の中でも、支えあって

生きているパレスチナの人たちが、

一時の訪問者に過ぎない私たちを、

ごく当たり前に助けてくれたことには、

いくら感謝しても足りません。




byしゅくらむ


by shuklm | 2014-10-24 06:51 | パレスチナ自治区サイド(現地レポ等) | Comments(0)

ジェニンにて9・戦車に包囲された夜【後編】




20026月8日、深夜1



パレスチナ自治区 ヨルダン川西岸地区、

ジェニン難民キャンプから

数キロのザバビダ村。


戦車に包囲された宿舎で。




「イスラエル軍は、パレスチナ人を

眠らせないで消耗させるため、

夜中を狙って攻撃してくる」。



そのことは、パレスチナ人から

すでに聞いていました。






「動きがあるとすれば、1時間半の間。

その間に撃ってこなければ、

その夜は大丈夫だ」と。





1時間半後に目覚まし時計の

アラームをセットして、

ひたすら耐えました。



不気味なまでの静けさが、

かえって寒気をそそる。




ペンとノートにかじりつきながら、


「ああ、遺書書いて来なかったなあ」


「ココでなんかあったら、このノート、

発見してもらえるかなぁ」とか、

とりとめのない想念が脳内をよぎっていました。


とにかく報告だけは残そうと、

必死にメモを取り続けました。





辞世の句とか、全然思い浮かばない。

それよりなにより、眠い。


昼間の疲れが襲ってきて、

恐ろしく眠い。



こんな状況だっていうのに、

瞼を開けていられない。





睡魔と闘っている間に、

1時間半が何事もなく過ぎ去り、

アラームが鳴りました。



秒殺でアラームを叩き切った瞬間、

そのまま倒れ込むように眠りに落ちました。





byしゅくらむ


by shuklm | 2014-10-22 06:37 | パレスチナ自治区サイド(現地レポ等) | Comments(0)

ジェニンにて8・戦車に包囲された夜【前篇】




投下される夜間照明弾。

 不気味な音と光を放っていた。(筆者撮影)

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On June 8th,2002, Jenin Camp, WestBank,Palestine

20026月7日夜。パレスチナ自治区、ヨルダン川西岸地区

ジェニン難民キャンプから数キロのザバビダ村にて。






夜の闇の中で。


宿舎の窓からは、山の方に

次々と花火のような明かりが

落ちていくのが見えました。




見たことがない音と光。



「夜間照明弾だ」と誰かが

教えてくれました。




「もしかして、ヤバいのかな…?」

とは思いながら、

その危険性は、本当には

実感できていませんでした。






日付が変わって、深夜

零時過ぎ頃だったでしょうか。




宿舎2階のロビーで話し込んでいると、

参加者の一人が、

酔っ払いに負けないように大声で、

宿舎職員の伝言を通訳するのが

聞こえてきました。




「みなさーん、

静かにしてくださーい。


 戦車が来てまーす」。





「はい??」






初めは何のことかわからず、

皆ポカンとしていました。




そこへ、ツアーコーディネーターのパレスチナ人が、

物凄い勢いで階下から

駆け上がってきました。





「皆さん、すぐ窓際から離れて! 



この辺りは戦車に包囲されています。


動くと標的にされるので、

電気を消して。


道路側の部屋の人は、

内側の部屋に移ってください」





大慌てで大移動が始まりました。





「大丈夫、落ち着いて。

こんなのいつものことだから」と言う彼に、


「いつものことなの??」と

突っ込みたいのをこらえて、

私たちは廊下を走りました。





内側の部屋に移りましたが、

とても眠るどころではありません。






【次回に続きます】




byしゅくらむ


by shuklm | 2014-10-20 06:34 | パレスチナ自治区サイド(現地レポ等) | Comments(2)

ジェニンにて7・砲声から逃れた後は、全力で卓球!




▼砲撃から逃れた後の夕暮れ。ザバビダ村にて(筆者撮影)

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2002年6月7日。

パレスチナ自治区、ヨルダン川西岸地区。



イスラエル軍に包囲された
ジェニン難民キャンプから
命からがら戻ってきたその日、

ツアーメンバーは、

数キロ離れたザバビダ村へ向かいました。





ホームステイどころではないので、急遽、

パレスチナ・アグリカルチャー・リリーフ・コミッティー

PalestainAgriculture Relief Committee : PARC)という、

農業関連施設に宿泊させて

もらうことになりました。




何はともあれ、車椅子利用者とともに、

無事に帰って来ることができて、

正直なところ心底安堵しました。






施設の共有エリアには、

なぜか卓球台が置いてありました。


それを見つけたツアーメンバーたちが、

早速ラリーを始めました。




私はくたびれ果ててほぼ虚脱状態だったのと、

「そんなことやってる気分じゃないよ…」と

いうのも少しあって、加わらずに

観戦していました。





「あんなに悲惨な状況を観てきたのに、

よくそんなに簡単に切り替えられるな。


私は、とてもじゃないけど笑えないよ」と、


苛立ちとも怒りともつかない

感情が湧いていました。





が、しばらくすると、パレスチナ人の

コーディネーターまでも参戦し、

ガチで打ち合い始めました。



日本語も達者な彼が、

「よっしゃー!」と歓声を上げて

ハイタッチを交わすのを見て、

理解しました。




悲惨な状況だからこそ、

何もかも忘れて没頭する

瞬間が必要なんだと。



知識として知ってはいたけれど、

その時初めて、身をもって実感

したのでした。





てゆうか、リフレッシュ

しないとやってられない。



家をぶっ壊されても、

ありえない目に遭わされても、

生きている人間の日常は続いていく。





遠くにそびえる塔から、

アザーン(礼拝の合図)が

響いていました。


毎日決まった時間に繰り返し流れる、

朗々としたアラビア語の詠唱。




いつも下校時刻に校庭に

流れていた曲を聴いたような、

懐かしいような、

ほっとするような時間。





ものすごく静かで綺麗な、

1日の終わりでした。





しかし、この日はまだ

それだけで終わらなかったのです。






byしゅくらむ


by shuklm | 2014-10-18 10:40 | パレスチナ自治区サイド(現地レポ等) | Comments(0)

ジェニンにて6・近づいていくる銃声。手を振る子どもたち。




▼イスラエル軍の銃声を聞きながら。

最初は1キロ位先、さらに500メートル、

300メートルと、次第に迫ってくる。(筆者撮影)

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On June 7th,2002, Jenin Camp, WestBank,Palestine

20026月7日、午後。 

パレスチナ自治区 ヨルダン側西岸、

ジェニン難民キャンプにて。





戦車の砲撃音が遠くに響く中、

現地の人たちは、平然と、

顔色も変えずに淡々と

証言を続けていました。





数分後。





生き残った少年の話を

聞いているそばから、

砲撃音と銃声が、

300メートルくらい先まで

迫って来ました。





若者たちが、キャンプ入口の方へ

駆け出していきます。



ついさっきまで集まってきていた

子供たちは、

屋内に避難するため、

いつの間にか一人もいなくなっていました。





応戦する銃声も、近くで盛んに

聞こえ始めました。





説明者たちが短く話しあった後、


「君たちがいると、

若者たちが危なくて戦えないと

言っています。

 すぐに退去していただきます」


と伝えてきました。





ここまでか。





午後2時。


ツアーメンバー全員で、

キャンプから出ることになりました。






UNマークの付いた防弾チョッキを

着た国連職員がやってきて、

「こちらへ」と先導してくれました。




10分ほど歩いて砲撃音と反対側の

大通りへ抜け、

携帯電話で呼んだタクシーを待ちました。





見上げると、

2階から、何人もの子供たちが、

手を振ってくれていました。


身を乗り出している子もいます。





青い空の下で、ひらひらと

ひるがえっていた、

幾つもの小さな両手。




私は、手を振り返すことが

できませんでした。






タクシーへ乗り込み、

後ろ髪を引かれる思いで

キャンプを出ました。





【次回に続きます】

byしゅくらむ


by shuklm | 2014-10-17 06:32 | パレスチナ自治区サイド(現地レポ等) | Comments(0)

ジェニンにて5・水と薬をくれた医師。遠くに響く、戦車の砲撃音。




20026月7日、午後。 


パレスチナ自治区 ヨルダン川西岸、

ジェニン難民キャンプにて。




車椅子利用者と、日陰へ入ろうと

「爆心地」の真ん前の家をたずねると、

主人は、介助していた私たちも招き入れ、

氷水を出してくれました


汗とストレスでアトピーが

悪化した私には、

痒み止めの抗生物質まで

与えてくれたのです




彼は、キャンプ唯一の医者だったのです。


どれほど貴重な水と薬だったことか。






「自分は、なにやってるんだ。


こんなところまできて、

こんな大変な状況の人に、

こんな貴重なものを差し出させて。


自分はこの人たちに、

いったい何を返せるのだろう」。





感謝も謝罪も、その場では何ひとつ、

まともな言葉になりえませんでした。







砲撃音を聞きながら撮影 

On June 7th,2002, Jenin Camp, WestBank,Palestine

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外に出ると、耳慣れない

「ドォーン」という重低音が、

遠く響いていました。




そのうち、「タタタタタ」

「パンパンパン」という

連続音も聞こえ始めました。




「何の音?」と訊くと、

「ドオーン」は、イスラエル軍の戦車砲、


連続音は自動小銃とライフルだと、

誰かが教えてくれました。




ジェニンは1キロ四方くらいの

小さなキャンプなので、

距離にして12キロ位の近さでしょうか。



後から考えれば、相当緊迫した

状況だったと思われますが、

あまりの惨状に感覚がマヒ

していたのか、恐怖はほとんど

感じませんでした。



  


ただ、暑かった。

ひたすら暑かった。





気温は、46度。


現地の人でさえ、

「こんな暑い日はない」という

ほどの高温です。





風は、ぴたりと止んだまま、

そよとも吹かない。





一瞬、意識が遠くなりました。






【次回へ続きます】

byしゅくらむ


by shuklm | 2014-10-15 05:29 | パレスチナ自治区サイド(現地レポ等) | Comments(0)

ジェニンにて4・子供たちの笑顔、無数のピースサイン。




20026月7日、午後。 

パレスチナ自治区 ヨルダン川西岸、

ジェニン難民キャンプにて。


この男の子は、拾った棒切れで、

銃を撃つ真似をして遊んでいました。

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それが、生活の一部になってるようでした。



▼瓦礫の山で遊んでいた子供たち

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OnJune 7th,2002, Jenin Camp, WestBank,Palestine




一人にカメラを向けると、
「僕も、僕も」と次々と集まってきました。

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▼最初は遠巻きに眺めていた子も、いつの間にか輪の中に。
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子どもたちの笑顔に救われると同時に、

無数のピースサインが、切なく刺さりました。



【次回へ続きます】

byしゅくらむ



※明日の通勤時間帯は、台風で大変そうですね…。

 どうしてもお出掛けになられる方は、どうかお気をつけて。

 私も出勤しなくてはならないので、始発で出掛けます


by shuklm | 2014-10-13 08:32 | パレスチナ自治区サイド(現地レポ等) | Comments(0)