オトナの社会科・中東からの声を手掛かりに。

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なぜ「停戦」が「和平」につながらないのか? その2

2002年当時

毎日の生活に必要な水さえも、イスラエルがすべて管理している占領下。

ガサの住民は、イスラエルから水を買わなくてはなりませんでした。


しかも1日の割り当て量が決められていて、

パレスチナ人は、15リットルまでしか買うことができない。

イスラエル側は180リットルまで使用できるのに。


災害時に必要な備蓄として、人間が生きるために必要な水は、

13リットルと言われています。

15リットルでは、何人もの家族が生きていくだけでも大変なことです。

畑を潤すこともできません。



また、ガザの人たちは満足に漁にも出られませんでした。

豊かな地中海の漁場が、目の前にあるのに。


イスラエルの制限で、ガソリンが日常的に不足しているために、

自分の船があるのに、燃料がなくてエンジンが動かせなかったのです。


なすすべなく、ただ毎日浜辺で、無念な思いで海を見つめることしかできない漁師たち。

その姿は、以前、ジャーナリストの古居みずえさんがレポートされていました。




2002年、交流ツアーでガザ地区を訪問した友人に対して、

ガザの人は語っていたそうです。



「(当時)80%の人々が貧困ライン以下、失業率は65%以上。


 失業中の親が、イスラエル兵に理由なく逮捕されたり殴られたりするのを日常的に見ながら、子供たちは育っていく。

 『父親は稼げないばかりか、家族の安全も守れない』と失望して、

 やがて自分から家を出て、学校にも行かないでストリートで稼ぐようになり、

 さらに武器を持って戦うようになる」と。



これが、イスラエル占領下の現実でした。

【次回に続きます】 
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June 2002   Tulkarem,WestBank,Palestine
2002年6月、ヨルダン川西岸地区 トゥルカレムにて、著者撮影。
最近、障がいをもって産まれてくる子供たちが増えているという。
占領との因果関係は証明されていない。
でも、彼女はそんなことには関係なく、屈託のない笑顔を向けてくれていた。

byしゅくらむ


by shuklm | 2014-08-31 11:07 | エルサレム・和平・国際監視 | Comments(0)

なぜ「停戦」が「和平」につながらないのか?

今回の停戦が、とにかく少しでも長く続くことを願っています。


ただ、それだけでは、解決にならない。



それは、簡単にってしまえば、


弾が飛び交ってない時も、イスラエルがこれまで日常的にやってきたことが、

パレスチナ側から見てあまりにもヒドすぎるから、です。




たとえば、イスラエルが定めた「軍令」。

 


「パレスチナ人は、特別の許可なく地上および地下の水を汲んではならない」

「パレスチナ人は、許可なくしてトラクターその他いかなる農機具も

         輸入・使用してはならない」

「パレスチナ人は、果実、野菜、工業製品、石材、郵便切手、古美術品を

         輸出してはならない」

「イスラエル軍当局は、あらゆる地域を封鎖し、交通を遮断することができる」等など



 (原点は、「エルサレム・メディア&コミュニケーションズ・センター」の「軍令集」。

  それを、日本のパレスチナ支援団体「ハジャルナー」が翻訳されたものです)




こんな軍令が、1967年から、1300以上存在していました。  




これによって、イスラエル軍は、パレスチナ中に「合法的に」検問所を設け、パレスチナの救急車を止め、臨月の妊婦さんの通行まで拒否するということが日常的に起こっていました。



ある検問所では、通行を止められたその場で陣痛が始まってしまって、

検問所で赤ちゃんを産んだ女性がいました。

彼女は、「チェックポイント(検問所)の母」と呼ばれているそうです。



弾が飛び交ってない時も、パレスチナの人たちは、

普段から、目に見えない弾にさらされていたのです。





私自身は、ガザ地区を訪問したことはありません。

ガザについては、現地を訪問した友人たちが実際に聞いた話と、

西岸地区で自分が体験したことと・帰国してから調べたことをもとに、

おぼつかないながらも書いてみたいと思います。


【次回に続きます】  

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June,2002 WestBank, Palestine
2002年6月7日 ヨルダン川西岸地区 ジェニン難民キャンプにて、著者撮影。
一人にカメラを向けると、次々と子供たちが集まってきました。

byしゅくらむ


by shuklm | 2014-08-30 16:11 | エルサレム・和平・国際監視 | Comments(0)

イスラエル軍事侵攻のキッカケ「ヘブロン誘拐事件」への違和感。





ヨルダン川西岸エリアのいたるところに、
このようなコンクリートブロックが、
「車両テロを防ぐために」、
イスラエル軍によって設置されていました▼
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今年7月からのイスラエルの軍事作戦は、

行方不明となっていたユダヤ神学校の生徒の少年3人が、

遺体で発見されたことがキッカケとされています。



事件への関与を否定しているにもかかわらず、

イスラエル政府はハマスを犯人と断定し、

それへ報復として始まったものでした。



少年たちは、ヨルダン川西岸のヘブロン近郊で、

夜中にヒッチハイクをしている時に行方不明となり、

遺体はそこから遠くない場所に

埋められていたと報道されています。




ヒッチハイクは、ヘブロンの入植者の人達にとっては、

日常の交通手段だったようです。




田中宇さんの過去のメールマガジンによると、

ヘブロンの入植者たちはエルサレムへ通勤する人が多く、

その際、お互い乗り合いで、車が満員になるまで

待ってから出発する様子がレポートされていました。




それにしても、私が目にしたへブロン入植地は、

ほんの数時間の滞在だったのに、

敵意と警戒心の強さを強く印象に残す場所でした。




実際、ヘブロンは、入植地の中でも

一番衝突の多い場所です。





あれほど警戒心の強い地域で暮らす少年たちが、

しかもユダヤ神学校に通うバリバリのユダヤ教徒が、

ヒッチハイクでパレスチナ人に

簡単にさらわれたりするでしょうか?




どうしても、しっくりこないのです。


「これはイスラエルの謀略だ」などと

断言出来るだけの確たる材料を、
私は持っているわけではありません。


ただハッキリしているのは、
殺された少年の親が、「報復を望んでいない」と語っていたこと。


もうこれ以上の死は、望まない、と。


この声を、かき消させてはならないと思うのです。




PS

この記事をUPしようとしているところで、

「長期停戦成立」のニュースを聞きました。

まずは、よかったです。


とにかく1日でも長く停戦が続くことを願います。



by しゅくらむ

※記事の一部不正確を思われる場所を訂正させていただきました


by shuklm | 2014-08-27 06:46 | 時事・ニュース | Comments(0)

ヘブロンにて・その2。入植地の子どもたちの視線





初めて訪れたヘブロン。

ユダヤ人入植地側への通過点で。




ツアー参加者は、検問所でイスラエル兵からチェックされ、

車いす利用者と介助している人のみが公道の通行を許可されましたが、

その他の参加者は、細い崖道を迂回して通らねばなりませんでした。


通過している間、
突き刺さるように感じる、「なんなんだ、お前らは?」という、

入植者たちの不審の目、目、目。


初めて間近で感じた、

敵意、と言ってもいいくらいの、ビリビリとした異様な雰囲気。




とても写真が撮れる様子ではありませんでした。




子供たちの目も暗く、近寄ってくる子は誰もいません。


遊んでいた手を止めて、じっとこちらを凝視したまま、
遠巻きに視線を向けているだけです。




同じツアーのメンバーは、ユダヤ人の子供たちから、
明らかにこちらへ向けて、

首をかき切る仕草をされたそうです。




入植者の女性が、イスラエル兵に向かって、

「なんでこいつら(外国人)を通すのか」と

いった様子で、激しく詰め寄る場面も。





異質な者は、敵としか思えないのか。
入植という異常な状況が、子供までも変えてしまうのか。



そう感じた、数時間でした。




byしゅくらむ


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by shuklm | 2014-08-26 06:44 | イスラエル 現地レポなど | Comments(0)

ヘブロンにて・その1。入植地―分断された街で





今年7月のイスラエルの軍事行動のキッカケとされている、
ヘブロンの少年3人が誘拐され殺されたという事件。



そのヘブロン入植地に、12年前、
たった一度だけですが訪問したことがあります。




わずか1・2時間くらいしか滞在できなかったのですが、
明らかに他の都市やキャンプなどと雰囲気が違っていました。





入植地とは、イスラエルが占領したパレスチナの土地に、

イスラエル人を居住させているところです。


(占領地に入植するのは、国際法違反です。

この入植地の問題が、和平への大きな障害の一つとなっています)






ヨルダン川西岸地区の中にある、ヘブロンの入植地は、

パレスチナ人が住んでいる街のど真ん中にありました。



20万人近くのパレスチナ人が住む中で、

500人ほどの入植者を、3,000人のイスラエル兵が

常に警護しているという日常。



双方の生活圏は分断されていました。

パレスチナ人の住む旧市街へのゲートは一か月前に閉じられ、

パレスチナ人も通行証がないと通れなくなってしまったそうです。





ツアーでは、パレスチナ人が居住している旧市街側と、

ユダヤ人が居住している入植地側と、両方を訪問しました。

パレスチナ人が居住している側のスーク(市場)は、

大変な人だかりと賑わいだったそうです。





残念ながら、私自身はその日グロッキー状態で、

ツアーバスの車中で半日伸びていたため、

パレスチナ人が生活している旧市街側に

立ち寄ることはできませんでした。





ようやく午後起き上がって、バスを降りて

歩き出した瞬間、ぎょっとしました。

その雰囲気の異様さに。





長くなりますので、以下は次回へ。

byしゅくらむ


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by shuklm | 2014-08-25 07:06 | イスラエル 現地レポなど | Comments(0)

パレスチナ自治区トゥルカレムにて・その2。子供たちの歓声




2002年6月、パレスチナ自治区。

ヨルダン川西岸地区の、

トゥルカレム難民キャンプ。



人口1万6,000人(当時)の、

小さな過密な街で。





市民交流ツアーメンバーと

路地を歩いて移動していく間に、

どこからともなく、

子供たちが集まってきました。




▼私たちを先導するように、歩きながらピースサインを掲げる子供たち。

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気がつくと、塀の上にも、

屋根の上までも、

子供たちが鈴なりに。


いつの間にか、その数は

500人位にも膨れ上がっていました。





歓声、手拍子、足踏み。

歓声はやがて掛け声に変わり、

手拍子とリズムが揃ってきました。




タンタンタン、タンタンタン。



羽音のような、雨だれのような、

足踏みと手拍子の音がこだまする。




呆然としました。

いったい、何が起こっているんだろう、と。





「あの子たち、なんて言ってるの?」

パレスチナ人コーディネーターにきくと、

「『連帯、連帯』と言ってるんだよ」

と教えてくれました。



「日本人が来たから、味方が

来たと思ってるんだよ」と、

同行の人は聞いたそうです。




外国人を見ることもあまりない

地域だそうで、物珍しさからか

と思っていたのですが、

それだけではなかった。




私たちのツアーは、
日本の市民が、

パレスチナ・イスラエル双方の

市民と交流することを目指すものでした。



国連でも政府関係者でもない、

直接医療支援などをするわけでもない、

ある意味、ただ訪問しにきただけなのに、

日本人であることだけで

こんなにも歓迎されるなんて、

とんでもない驚きでした。



byしゅくらむ


by shuklm | 2014-08-23 12:08 | パレスチナ自治区 現地レポなど | Comments(0)

パレスチナ自治区トゥルカレムにて・その1。「イスラエルとは、隣人でした」。



2002年6月、パレスチナ自治区。

ヨルダン川西岸地区、トゥルカレムにて、


市民交流ツアーで知事を表敬訪問。



10年近く知事をしている

高齢の男性から話を伺いました。



彼は、かつてはPLO主流派

ファタハのメンバーで、

南レバノン戦線の指揮官

だったそうです。







「日本の援助で病院ができたことに、

とても感謝しています。


イスラエルとは、以前はお互いに

訪問したり貿易したりして、

友情もありました。


しかしシャロンが登場して

(2001年、首相に選出)、

変わってしまった。


和平の意思は全くない、

戦争をするだけの政府です。



現在、ここには貧困な家族が大勢いて、

子供たちのミルクや食物が

不足しています。


電気も消えました。


水源の井戸は私たちの土地に

あるのに、水も出ないのです」。




温和な表情で、

「イスラエルとは隣人だった」と、

淡々と説明する知事。




かつてはイスラエル軍と

「最前線」で戦闘を繰り返した

パレスチナゲリラの闘士だった

であろう彼が、

イスラエルを罵倒する場面は

ひとつもありませんでした。




byしゅくらむ


by shuklm | 2014-08-22 07:40 | パレスチナ自治区 現地レポなど | Comments(0)

パレスチナ自治区にて。難民キャンプのテレビでは、ビルボード歌手がヘビロテ。




パレスチナ自治区、ヨルダン川西岸地区。

1日ホームステイさせてもらった
難民キャンプにて。



ご飯をいただいていると、テレビでは、
リッキー・マーティンの曲が
ガンガン流れていました。



(「誰だっけソレ?」という方のために解説。

日本では、郷ひろみが吹き替えた
「GOLD FINGER 」の元ネタ、
「Livin La Vida Loca」歌ってた、
ラテンなノリのカレです)

ちょうど全米チャートトップ取った後で、
日本でもヘビロテ状態だった頃。



「え、観れるんだ、こんなフツーに。

 ビルボード歌手だよ? 
 バリバリ アメリカだよ?」


「アレ? パレスチナって
反米なんじゃなかったっけ…?」




私がヨルダン川西岸を訪問したのは、
2002年6月。


その数か月前には、イスラエルが
ヨルダン川西岸へ軍事侵攻を開始し、

当時のアメリカ大統領
ジョージ・ブッシュはハッキリと
それを後押ししていました。


昼間、パレスチナ人の男性は、
「ブッシュ、あいつが問題なんだ!!」と
ものすごい剣幕でまくし立てていたのですが。



夜には、子供も大人も一緒に、
何の抵抗もなく、
欧米アーティストのPVとかを観てました。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」
というわけではないらしい。



毎日観ているものは、私たちが
日本で接するものと変わりませんでした。




この子たちはいま、テレビで
何を目にしているのでしょう。

いや、そもそもテレビを観れる
状況にあるのか。

いまの私には、知るすべがありません。





byしゅくらむ

by shuklm | 2014-08-21 07:23 | パレスチナ自治区 現地レポなど | Comments(0)

【お詫び】「難民キャンプってどこ?」について

友人から、
「今日の記事、『難民キャンプってココ!』っていう意味かと思ったよ」と指摘され、蒼白になりました。

確かに!
大変紛らわしいタイトルで、大変申し訳ありません!!!


地図は、私が訪問したキャンプや都市をマーキングしたものです。
このブログに出てくる地名をいちいち検索していただくのも申し訳ないと思いUPしたのですが、
かえって混乱を招いてしまったかもしれません。

正確には、私が訪問したキャンプは、ジェニン、トゥルカレム、ドゥヘイシャです。


こんなちっぽけなブログですが、せっかく見て下さる方に誤解を与えてしまったとしたら、お詫びするしかありません。


「難民キャンプ」という言葉から連想されるイメージと、実際の姿とのギャップを伝えたいと考えてつけたタイトルだったのですが、適切ではなかったと思います。

以後、注意を払っていきたいと思います。


この記事を丸ごと差し替えることも考えましたが、せっかく見て下さった方々へのお詫びと、自らの戒めとして、あえてこのような形とさせていただきました。
何卒、ご容赦下さい。


そして、私の配慮不足のためにパレスチナへの関心を損ねることがないよう、どうか、どうかお願いいたします。


なお、国際連合広報センターの「国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)」ページによると、

パレスチナ難民キャンプは、現在58ヶ所。

中東に住む、登録パレスチナ難民は480万人。

ここには、「ヨルダン、レバノン、シリア、それにガザ地区と東エルサレムを含む西岸にある58カ所の難民キャンプに住むおよそ140万人の難民が含まれる」とのことです。





byしゅくらむ


by shuklm | 2014-08-20 21:14 | パレスチナ自治区 現地レポなど | Comments(0)

パレスチナ自治区にて。「難民キャンプ」って、どこ…?




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(手書きのマーキングですみません…)




ヨルダン川西岸地区の、

トゥルカレムやジェニンなど、

いわゆる「難民キャンプ」を

訪問したのですが。




最初到着した時は、

「え、キャンプってどこ? 

ココなの??」と一瞬わかりませんでした。




そこは、3階建て位の

コンクリートビルが立ち並び、

道路は石畳やアスファルトで

舗装された、立派な「街」でした。




「キャンプ」という言葉の

イメージとは全く違っていて、

病院・学校・警察署もあり、

電気・ガス・水道などの

インフラも整備されてました。

病院や学校は、日本の援助で

設立されたところも沢山あるとのこと。




テレビやインターネットも標準装備。



住んでいた家から緊急避難

してきた当初は、

文字通りテントを張ったキャンプ

だったのかもしれませんが、

一番古く「避難民」となった

世代から数えれば、

もう4世代もそこで暮らしている

家族もいるわけで。





考えてみれば当然なのですが、

やっぱり、行ってみないと

わからなかったことでした。




byしゅくらむ



by shuklm | 2014-08-20 07:08 | パレスチナ自治区 現地レポなど | Comments(0)