オトナの社会科・中東からの声を手掛かりに。

syuklm.exblog.jp

なぜ人はカルトにハマるのか? 小学生で新興宗教に入信しかけた私の場合。







なぜ若者は、ISやアルカイダやオウム真理教など、

客観的に見ればどう考えてもおかしい集団に

引き寄せられてしまうのか?






かつて「宗教ジプシー」だった人間として

あえて言わせてもらえば、


「どう見てもヘンだからこそ引き寄せられる」


んだと思います。





なにがしかの参考になればと願って、

自分の経験を書かせていただきます。








■いじめられっ子の憧れ





私が最初に宗教に自覚的に関わったのは小学校5年生。


まだほんのコドモです。




そのコドモが新興宗教にのめり込み、

親の反対を振り切って洗礼寸前までいったのは

何故だったかというと、


「確固たる居場所と、何があっても揺るがない軸」


が必要だったから。








保育園時代から集団生活に馴染めず、孤立気味。



人と振る舞いが違うことを揶揄されても

NO」と言えない、登校拒否することもできない、

典型的ないじめられっ子体質でした。



自分がいじめられたくない一心で

他の子へのいじめにも加担し、

何の恨みもない同級生を平手打ちするまで

追い詰められていました。





見かねた担任がクラス替えを行って、

5年生でようやくいじめっ子とは別組に。


その時、初めて同級生になった女の子が

信仰していたのが、キリスト教系の新興宗教でした。





その教義を忠実に守って、

給食前に目を閉じて祈りを捧げ、

習字の書き初めに「神の慈悲」などと書くような彼女に、

生徒も教師も完全にドン引き状態でしたが、

私は逆に興味を持ちました。




周囲に流されずたったひとりでも信念を貫く姿に、

の強さの源を知りたかった。




その子の家に遊びに行くようになり、

やがて毎週2人で聖書の読み合わせ勉強会を

するようになります。








■「浮きまくってる」からこそ、アイデンティティを確認できる





キリスト教系と言っても、この宗派の教義は、


「いつかハルマゲドンが起こって

神が異教徒を全員滅ぼし、

信者だけが救済される」という

「終末思想・選民思想」。





「最後に救われる」ためには、

強固な信仰を貫くことが絶対不可欠でした。





ここの教義では、

信仰する唯一神以外は認めないので、

神社仏閣に行く修学旅行もダメ。



唯一神を賛美する歌以外は、

歌謡曲も校歌も歌ってはダメ。


いろんな神様が登場するギリシャ神話もダメだし、

神が造ったはずのない妖怪とか宇宙人とか

出てくるアニメや映画もすべてNG。


(なので、デビルマンとか宇宙戦艦ヤマトとか

スターウォーズとかも勿論アウトです)





小学生の日常生活でこれを忠実に実行すれば、

当然、相当浮きまくります。




しかしその「浮きまくり感」自体によって、


かえって「あいつらは分かってない。

分かりあえるのは自分たちだけ。

あたしたちは2人でも頑張ろうね」という


同族意識が強化されていきました。





いじめられっ子だった自分が

「ブレない強い軸」を手に入れたこと、

上下関係でない対等な人間関係を経験したことは、

何にも代え難く重要なことだったからです。




それは、「どうせ自分はフツーの社会では

生きられないから」という諦めとくっついていました。





ついには、「いつ洗礼を受けるか」という

具体的な日程調整までいきましたが、

それに危機感を覚えた両親が大慌てで引っ越して

物理的に引き離したほどでした。






転校先で、私は信仰を維持することは出来ませんでした。



ただでさえ居場所確保が死活問題の「転校生」が、

たったひとりで給食前の祈祷を実行する根性はなかったのです。



あえなく挫折し、意思を貫けない弱い自分を

思い知らされた訳です。






そんな弱っちい自分がそれで自立できたわけでなく、

その後も20歳近くまで

仏教→イスラム教→無宗教と

遍歴していくことになるのですが。




(なぜ新興宗教と訣別できたのか、

それはまた別途書きたいと思いますが)








■「こっち側」の世界で、どれだけ生きる展望が見いだせるか






もし当時私が高校生以上で、

もう少し経済力と行動力があったら、

家出してでも入信していたかもしれない。



だから、オウム真理教の出家信者や、

シリアへ向かおうとした北大生は、

とても他人事とは思えないのです。





どうしてありえないような集団に走ってしまうのかと言うと、


「疎外されたポジションや展望の見えない場所から脱するためなら、

人はどんなヘンテコな藁だってつかんでしまう」ってことなんです。




周囲がいくら「そんな藁なんてつかむのをやめろ」と

無理やり引き剥がそうとしたところで、

他に選択肢が見えなければ、

手を離すことなんて出来ない。







だから、IS系組織から命懸けで息子を連れ戻した

ベルギー人の父親ディミトリーさんの訴えや、

デンマーク・オーフス市での取り組みは、

非常に意義があると思ったのです。





IS帰りの若者に居場所を保証し、

「再起の機会」という具体的な選択肢を用意すること。




そしてそもそも、「あっち側」まで行かなくても、

「こちら側の社会」でも一緒に生きていくことが

できるんだと示すこと。






でもそれって、宗教や過激思想に走る人に限らず、

誰にとっても必要なことだと思うんです。




彼らの存在は、私たちの社会がどれくらい

生きやすいかどうかの指標であるのではないか?





そういう自らを見返すための鏡として見ることができれば、

違う展望が開けてくるのではないかと思うのです。







【当ブログ内関連記事】


ISから息子を連れ戻したベルギー人父親の訴え。「過激派に走る若者を排除しても解決しない」。↓

http://syuklm.exblog.jp/25276106/


私たちはすでにISに負けている。そこから出発する必要があるのでは?↓

http://syuklm.exblog.jp/25305143/


ISとどう向き合うか?その3。デンマーク・オーフス市での試み

http://syuklm.exblog.jp/25312552/




byしゅくらむ


シュクラムは、アラビア語で「ありがとう」。
筆者が知る数少ないアラビア語です。
ココでの出会いと、ここまで読んで下さったことに、感謝をこめて。
シュックラム!



↓よろしかったらポチポチっと押していただけますと励みになります↓

にほんブログ村 旅行ブログ 中東旅行へ   

にほんブログ村   人気ブログランキングへ

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村

by shuklm | 2016-02-01 21:35 | 「テロ」・IS・イスラム・宗教について | Comments(0)